茶餐廳バカ一代

熱奶茶と菠蘿油から始まる、めくるめく茶餐廳の世界と旅の話。

廣州、古晉、茶果嶺:香港とサラワク、そして華人一族の歴史をつなぐ鏡 - 再見、榮華冰室

十月四日、茶果嶺の榮華冰室が閉店する。

言うまでもなく政府による村の再開発と、それに伴う土地収容によって、1962年から続く奇跡のような店がその歴史に幕を下ろすことになる。

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榮華冰室については既に色々な人が様々な媒体で書き記していて、最近は閉店前に一度でいいからと行かんとす人々の大行列がSNSを賑わせているけれど、それもあと2営業日。10月4日で、この素晴らしい、茶果嶺の、香港の歴史とともに歩んできた冰室が終わってしまう。

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店主の”鏡叔”(歐陽偉鏡さん)のセレクトなのか、いつも懐かしの広東ポップが流れている店内、コンデンスミルクで食べる西多士、初代店主が旺角で買ってきたというハート型の意匠がかわいい中古の卡位…。この店についてはわたし如きでは到底書き尽くせないほどの魅力に溢れているけれど、これらが(そしてすぐ向かいの開記冰室が)全て過去のものになってしまうのは、とてもさびしい。

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茶果嶺の村が、そして店が消えてしまう前にとばかりに足繁く榮華冰室に通う中で、去年の五月からずっと気になっていた鏡があった。

元々は教会だったという細長い榮華冰室の入って左手の壁にある鏡、そこには「砂羅越古晉 益新鏡莊 敬賀」という文字が刻まれている。鏡の右半分はいつのものだかわからない古いポスターで隠れているけれど、おそらく「榮華冰室 開幕誌慶」といった文字があり、この冰室の開店記念に贈呈されたものなのだと思われる。

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「砂羅越 古晉」とは茶果嶺から2,400kmも離れたマレーシアはボルネオ島、サラワク州クチンのことだ。益新鏡莊について調べてみると、広東系華人が経営している現地の老舗の額縁店で、どうやら今でも現存しているらしい。そういえば、茶果嶺は長い歴史を持つ客家の村として名高いけれど、広州系の人も多いと聞いた。埋單の際に店主に出身を聞いてみると「廣州人だよ」と。そうか、親戚から贈られたものなのか。

 


それから一年強、榮華に行く度にこの鏡を見て、クチンに行かなければ、益新鏡莊に行かなければと常に思い続けていた。私は華人ではないし、華人研究者でもないけれど、マレーシアやベトナム、タイ、インドネシアで暮らす華人に対しては強い関心を抱いていたし、何よりサラワク州クチンというのは行くだけで美味しいものにありつける、食いしん坊バンザイタウンでもあるのだ。行かない手はない。(クチンやサラワクがどれだけ素晴らしいかは うっかりサラワクにご飯を食べに行った話 をご参照ください)


そうはいってもクチンは遠く、なかなか行く機会に恵まれないまま年を越し2026年となり、この六月。重い腰を上げ、私はようやく”砂羅越 古晉”ことサラワク州クチンを訪れた。

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ちゃんと訪れるのは実に八年ぶりのクチン、空港から旧市街へ直行し、宿に荷物も置かないまま茶室でバターコーヒーを、そしてサラワクラクサをいただき、件の店を目指す。

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Google mapにピンを立てていた益新鏡莊は、華人街”老巴剎 Old Bazaar”のエリアにあり、すぐに見つかった。しかし運悪く、ハリ・ガワイの連休の時期だったこともあり昼過ぎだというのに益新は閉まっている。

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鍵が掛けられた門扉を前に、すわ結業か!?ここまで来たのに!?と一瞬焦ったものの、隣の店の人に聞いてみたところ「今日は休みなんじゃない?また明日来なさいよ。Whatsappある?念のため店の人の電話番号教えておくわね」と。よかった、益新鏡莊はまだ営業し続けていてくれているし、クチンの人は優しいし、サラワクってなんて素晴らしい場所なんだろう…!!

 

翌日。正午前に再び益新鏡莊に向かうと、相変わらず門扉は八割がた閉まっているけれど、ちょうど頼んだものを受け取りに来たと思しきお客さんがおり、少し隙間が開いている。これ幸いとばかりに店へと飛び込み、「香港から来た日本人です!この店について少しお話しを聞きたくて!」と無理を言い、訝しがる店主に時間をいただく。

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益新鏡莊 Yeck Sung Frame Makersは、そして先代店主の歐陽偉才さんはクチンの中でも有名な店と人のようだった。残念ながら今年2月に96歳で亡くなられ、偉才さんにお目にかかることはできなかったのだけど、写真で拝見する御姿はどこか茶果嶺の榮華冰室で目にする鏡叔の面影を感じさせるものだった。

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現店主、店としては三代目にあたるSteven氏(偉才さんの息子)も広東語(現地では”廣府話”)をお話しになるので、何故私が益新鏡莊に興味を持ったのかや、茶果嶺の榮華冰室のこと、再開発で店が消えていくことなどを私の下手くそな広東語で説明する。最初は戸惑っていたStevenさんからは、お父さんである偉才さんは広州からの移民一世だが、二世である自分はクチン生まれクチン育ちで広州や香港の親戚のことはもうよくわからないこと、今は鏡への文字入れはやっておらず、額縁専門であること、今年偉才さんが亡くなったことなどをひとつひとつ、丁寧に教えてもらった。

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テーブルには父・偉才さんの写真や取材記事などがたくさん挟まれていて、「川沿いにある華人歴史博物館は行ったかい?あそこにもうちの父がいるよ」と話す口ぶりからも、広州から南洋クチンへ移り、老舗を築いた父を誇りに思っているのであろうことが強く感じられた。そして身勝手ながら去来するのは、偉才さんがご存命のうちにクチンに、益新鏡莊に来て話を聞くべきだったという思い…。

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ひとしきりSteven氏にお話しを聞かせていただいた後、お礼を兼ねて額縁をひとつ購入させていただいた。サイズを伝えると機械を動かしはじめ、木材をカットし、フレームを作り上げていくその姿は、老舗の三代目そのものだった。

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Steven氏からの話やテーブルに挟んであった記事、そしてネット上にあるクチンの老巴剎ストーリーを集めたウェブサイト掲載の内容などを総合すると歐陽偉才さんは1931年広州生まれ、戦後間もない頃、16歳にして広州から香港に移り、その後クチンにやってきて親戚がやっていた鏡屋で修行し、のちに店を買い取って益新鏡莊としたらしい。そこから90歳になるまで70年に亘って店を続けていたのだという。偉才さんご自身が香港でかつて暮らしていたのであれば、既にクチンに移り住んでから十数年が経っていたとしても、茶果嶺で冰室を開業した親戚に開店記念の鏡を贈るのは不思議ではない。榮華冰室の鏡は、広州、香港、クチンと広がっていった歐陽一族を繋ぐものでもあり、亡くなった歐陽偉才さんご自身の足取りを記憶するものでもあったのかもしれない。

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後日、クチンから戻った私は榮華冰室に向かい、鏡叔に益新鏡莊へ行ったことを伝えた。普段は客として店主である鏡叔とはオーダーやお会計、挨拶程度の会話しかしないのだけど、益新鏡莊の話を持ち出すと鏡叔の顔がほころび「おおクチンまで行ったか!こんな小さな、狭い店を香港でやってる話もしたのか?恥ずかしいなあ」と謙遜を交えて笑いながらお話しをされていた。鏡叔の笑顔を見るにつけ、物好きな私の自己満足ではあるけれど、クチンに、益新鏡莊に行ってよかったとつくづく思わされた。

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広州を出発点に、片や香港九龍・茶果嶺に、片やマレーシアはサラワク州クチンに移っていった歐陽さん一族の歴史、そして益新鏡莊と榮華冰室という二つの老舗の歴史を、今も物言わず語り続ける鏡。それは交通・通信が発達した今よりも、ある意味ではずっと香港と東南アジア、そして華人の出発点であった広州や潮州、福建とが繋がっていた時代の記憶であり、証拠なのであろう。

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伝え聞いた話では、榮華冰室の古い卡位(ボックス席)などは閉店後、博物館に収蔵されるようである。果たしてこの鏡は、どうなってしまうのだろうか。早ければ一ヶ月も経たずにやってくるのであろう取り壊しの日までに、華人一族の歴史、店の歴史を繋いできたこの鏡がどこかよい所で保管されることを、私は願って已まない。

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さよなら茶果嶺、そしてありがとう榮華冰室。

 

うっかりサラワクにご飯を食べに行った話

わたくし、旅と食べ物については常にうっかりしすぎなのである。

発端は三月下旬、Twitterで流れてきたとある方のツイートだった。近年のTwitter(決してXとは呼ばない)のグダグダっぷりには辟易としていたけれど、稀に良い情報と遭遇することがある。「『うっかりサラワクにご飯を食べに行きたくなる本』を読んでたら美味しそうな料理ばかりで、サラワクに行きたくなってきた」というストレートな内容のtweetを見るなり、すぐさま「うっかり」本を入手すべく検索。えっ、これ非売品なの・・・。

これが「うっかりサラワクにご飯を食べに行きたくなる本」だ!



マレーシアはボルネオ島、サラワク州。東京からは南西に5,000km弱、香港からはほぼ真南に2,300kmほど離れたところにあり、日本で言うなれば北海道に北東北三県を足したくらいの面積を誇る大きな州だ。その広大さに対し、人口は茨城県くらい。面積の大部分は森林に覆われており、海沿いや川沿いに州都クチンをはじめとしたいくつかの都市がある。半島部と異なり先住民比率が高く、マレー系と華人とがそれに次ぐというの特徴的。

ムカーからクチンへの機窓。森と川が広がるサラワクの大地。



クアラルンプールやペナン、コタキナバル等と比べると知名度は低そうなサラワクだけれども、実は私の中では以前からマレーシアの中でも好きな場所のひとつで、クチンに2回、ミリとシブに各1回、累計では3回既に足を運んでいた。おそらく日本人としてはだいぶサラワク好きな人間だと思うけれど(そもそもジョホール州バトゥパハに18回行く異常マレーシア偏愛男性である)、その理由はやはり食事。初めてクチンに行った2018年にサラワクラクサに出会って以来、半島部でもサラワクラクサを見かければ食べるほど好きになってしまい、東南アジアあちこちにあるご当地ラクサの中でもサラワクが一番美味いと思っているほどである。

今回のマイベストラクサ、ビントゥルの毓泉茶室Yee Chwan Cafeにて。

 

翻って、件の「うっかりサラワクにご飯を食べに行きたくなる本」について。非売品で香港では到底手に入りそうになかったのだけど、都内に住んでいる友人Yくんにそれとなく「欲しいな~」という話をしていたら、なんとわざわざ配布店舗まで足を運んでくれ、4月下旬に香港に持ってきてくれたのだった!持つべきものは行動力と食欲に溢れた友です。このYくんとは5月にバトゥパハへ一緒に行ったのですが、その件についてはまた別途。

ムカーの朝、魚の焼けるいい匂い。



 

「うっかり~」本は現時点で2024年版と2025年版の2冊がサラワク州政府観光局より発行されているのだけど、先に書いておくとこのブログを読んでいる方はどうにかして手に入れた方がいいです。題名通り、「ご飯」(といいつつ、その大部分は麺類)に徹底的にフォーカスしていて、他の政府観光局の刊行物にありがちな総花的な現地紹介とかとは全く異なる、読む人間の食欲をどこまでも揺さぶり刺激する30ページ弱。冒頭に「『サラワクグルメ写真集』ぐらいに思ってください。」と断り書きがあるのだけど、全くその通りで写真がともかくヤバい!!

クチンの協益茶室の写真を見て、これは行くしかないと思ったのです。

 

写真の撮り方が美しいとか、被写体の食べ物や店が映えるというのも勿論あるけれど、読んでいるだけで、見ているだけですぐわかるのが、「あっこれ作っている人、サラワクのご飯が大好きなんだな」ということ。好きでなかったら撮れないし書けないような内容になっていて、マレーシアの食べ物好きとしてはこんな本が欲しかったし、こんな本を作ってみたいと思う。サラワクに行ったことがない、サラワクラクサを食べてみたいという方は、サラワク政府観光局のIGアカウントを見てとりあえず悶絶していただきたい。「うっかり~」本の配布箇所情報も掲載されているよ。

https://www.instagram.com/sarawaktourismjp/

 

大変に素敵な冊子「うっかりサラワクにご飯を食べに行きたくなる本」、ぜひ毎年アップデートしてほしいと思っているので「作成・配布の効果あります!!!」と言ってもらうべく書いておくと、私は入手して半月でサラワクへの航空券をうっかりポチり、二か月と経たずにうっかりサラワクにご飯を食べに行きました。4泊5日、サラワク滞在約100時間で25食!「うっかり~」本が訪サラワク観光客増に絶大なる効果を発揮し、訪サ日本人の胃袋をガッツリ掴んでいること、サラワク州政府にはぜひご認識いただきたいものです。

うっかり本で知ったブラチャンビーフン(蝦醤米粉)。これもうまかった。



 

5日間、25食全てについて書いていたら日が暮れてしまうので、概要だけ。

今回はマレーシア航空を使いKL経由でサラワク入り。往路は行ったことが無かったビントゥル/Bintulu/民都魯へ。ビントゥルは石油や天然ガスによって大きく発展した、サラワクの中では比較的新しい都市で、マレー半島の各都市やクチン、シブにあるような素敵なショップハウスこそ少ないものの、経済的に豊かかつビジネス需要があるからかやたらとモールとホテルが多く、旧市街はホテル代が安い!旧市街の飲食店は華人経営の比率が高く、特徴的だったのがトマトソースを使った炒麺、炒茄汁麵があちこちで見られること。トマトソースといえばジョホール州ポンティアン/Pontian/笨珍のトマト雲吞麵だったけど、サラワクにもこの謎進化が見られるとは・・・。

ビントゥルの首都海鮮館Capital Cafeにて、エビとイカのトマトクイティアオ。ベースは蝦と魷魚が入った濕炒河なんだけど、トマトソースが加わり酸味と甘みが増して、洋の東西がミックスした奇跡の味に!

 

ビントゥルは古い建物こそ無いが、空がとても青くてよかった。奥の建物はデカい市場。



 

ビントゥルに一泊した後、思い立ってバスで2時間ほどのムカー/Mukah/沐膠という海沿いの小さな町へ。ここは漁を生業とするメラナウ族/Melanau/美蘭瑙族が多いところで、名物はUmaiという生魚料理。あまりにうっかりしており、滞在期間とHari Gawaiというサラワクの収穫祭にあたる連休が重なってしまい、目当ての店が悉く休みだったものの、なんとか美味いUmaiにありつけました。Umaiは順徳や潮州の魚生に近い料理だけど、Limau(カラマンシー)でさっぱりといただくのが特徴でかなり美味しかった!

ムカー名物のUmai Campur。魚生であり、マリネでもある。名実ともにUmai!!

彼がムカーのUmai King。ガンガン魚を捌いていく。

 

ムカーからはAir Borneoエアボルネオというボルネオ島内のコミューター航空に乗って、今回の主目的地クチン/Kuching/古晋へ。三度目のクチン(うち一回はトランジットで半日滞在だけど)、改めてサラワクラクサの美味さに感動するとともに、「うっかりサラワクにご飯を食べに行きたくなる本」のおかけで初めて知ったメニューにも出会えてとにかく食べまくった。衝撃的だったのが、やや郊外にあるホーカー"輝盛小販中心 Hui Sing Hawker Centre"の茄汁米粉, Tomato Sauce Mee Hoonという激ヤバメニュー。トマトソースだけでもかなり異端児なのに、ここのは揚げてホロホロになったビーフンの上にチャーシューと鶏肉、さらに魚片が載っており、食事というよりおやつ感のある甘めの味付けが不思議と美味しくてハオだった。メニューとしては全く異なるけど、位置づけとしては行田のゼリーフライとかを思い出す軽食で、今もあれがなぜ、どのように誕生したのか不思議に思いながら食べたくなっている。

茄汁炒米粉、あまりにもハオい。Kopi O 冰のグラスも好!



二泊三日のクチン滞在では、このトマトソースビーフンだけでなくブラチャンビーフン(蝦醤米粉)、みんな大好き潮州発祥の粿汁を食べ、さらにコロミー4回、サラワクラクサ5回とひたすら麺を食べていました。

クチンの錦裕Kim Jooにて、コロミーとAmbra Juice。Ambraはもっと広がるべき!

 

騎樓の下を歩くことでしか、摂取できない栄養がある。



うっかり長くなってしまったけれど、サラワクは半島部マレーシアとも、サバとも、国境を挟んだインドネシア側のシンカワンやポンティアナともちょっと違う独特の雰囲気と食文化に溢れていて、ありきたりな表現ではあるけれど人がみんなとても親切なので超おすすめな旅行先です。KLかシンガポール、コタキナバルあたりを経由しないと行けないのと、都市間移動が基本飛行機になる(ミリやビントゥルからクチンへはバスだと12時間以上!)のが燃油高で航空券が高騰している今となってはやや難点だけど、行ったらきっと美味しい発見があるので、ぜひ皆様うっかりサラワクにご飯を食べに行きましょう!

猫の街クチン。あちこちにいる猫さんもサラワクで待っています。



七年前のこと。

今日は六月九日です。

 

七年前の六月は、そしてその夏はとても暑かった。物理的に、気象的に暑かったかどうかはわからないけれど、その年の六月は外に出る機会が多く、特にコンクリートの上を歩く時間がとても長かったから暑かったと記憶しているのかもしれない。

 

香港で一番最初に勤務していた会社は銅鑼灣にあって、維園(ヴィクトリアパーク)がよく見えるビルに入っていた。2013年秋に香港に来て、翌年の秋から冬にかけては色々なことがあり、そして15年の六月上旬の夜には、同僚が窓の外を見ながら「今年は少ないね」なんて話をしていたことを覚えている。

 

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七年前の六月、当時もまた銅鑼灣で働いていた。

今はもう消えてしまった新聞が「維園で会いましょう」と一面に記していた日の夜、記利佐治街のあたりから維園に多くの人が列を連ねていた。辺り一面が人で埋まっているのに、蝉の声と発電機の唸る音だけが響く時間があった。

 

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七年前の昨日。

旺角あたりでは街の至る所に貼り紙が見られた。その種類と量は、"これは大きな波がやってくるぞ"と門外漢の私にさえ感じさせるものだった。

 

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七年前の今日。

街は白いTシャツを着た人で溢れていた。

堅尼地城の、今はなき祥香茶餐廳で沙爹牛肉麵と蛋撻を食べてから、港島線に乗って銅鑼灣に向かった。銅鑼灣は見たこともないほどに人が多く、あまりに暑かったので当時支店があった綠林甜品で鮮什果豆腐花を食べた。たくさん散歩をして、夜9時くらいまで香港島にいた。

 

祥香茶餐廳はクッキー生地のエッグタルトが美味い店でした。



 

七年前の六月十二日。

夜の銅鑼灣はいつもより暗かった。MTRは金鐘を通過していた。

 

六月十二日。



 

七年前の六月十六日。

街は黒いTシャツを着た人で溢れていた。

石硤尾で昼食を摂ろうとしたが、改装でお休みだったため北角の"社食"こと電車公司專用飯堂で椒鹽豬扒炒麵を食べた。北角からMTRにはもはや乗れそうにもなかったので、英皇道を西へと歩き、そして夜までずっと港島にいた。

 

北角の社食で出していた椒鹽豬扒炒麵は最高だった。



 

七年前の七月一日。

台南で朝を迎えた。前日は玉井に行って、しこたまマンゴーを食べてきた。その日の夜に高雄からマカオに飛ぶ予定だったけれど、居ても立っても居られなくなり急遽夕方のフライトを予約し、桃園から香港に戻った。夜の香港島は暗かった。まだ青山道にあった洪慶で、騎樓の下で深夜まで飲茶して帰った。

 

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七年前の七月は香港島だけでなく、九龍や上水、沙田を散歩することもあった。そうこうしているうちに、洪慶が騎樓での営業最終日を迎えてしまい、夜飲茶ができなくなってしまった。八月は雨の日があり、傘を持って歩く時間が長い日もあった。

 

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七年前の秋は嵐が多かったように思う。特に十月から十一月にかけては、激しい嵐が何度もやってきて、MTRが止まり、巴士が止まり、天星小輪だけを頼りに深水埗と銅鑼灣の間を通勤していた。

 

七年前、十一月の終わりには天候が少し回復したように思うが、年が明ける頃にはまた違った大きな嵐の気配がやってきて、それはそこから長い期間香港に、あるいは世界中に居座ったままだった。

 

七年前の夏からの嵐は翌五月頃に急な動きを見せて、あの頃のように車道を歩く機会はめっきり減ってしまった。祥香茶餐廳も北角の社食も、西灣河の百好も消え、休日に香港島に向かうことも少なくなった。暑い夏は、もうやって来なくなった。

 

七年というのは長いようで短く、そして香港に暮らす(一部の)外国人にとっては特別な意味を持つ期間だ。

今は七年前のことを今も鮮明に覚えている人もいれば、忘れかけている人、忘れたいと思っている人さまざまであるけれど、これからどんどん七年前のことを「知らない」人がこの街の永久性居民になっていく頃合いだということに、そして月日の過ぎる速さにただただ驚いている。

 

七年前のこと、私は多くを語る立場にはないけれど、暑い夏にたくさんの人が香港島の路上を埋めていたことだけは、記しておきたいと思う。

 

港式奶茶は8,500kmの距離を超えて;モンテネグロ、ウクライナそしてハンガリー

「ねえ、あなたの好きなミルクティーの店が、ハンガリーのブタペストにあるわよ。」
黒白淡奶のカップが写ったカフェの写真とともに、店の存在を知らせるメッセージが送られてきたのは2022年5月のことだった。

頻繁にやり取りしていたわけではないのに、このメッセージが送られてきて心底驚いた。

日頃から茶餐廳が好きなことをアピールしていると、思わぬところから情報が入ってくることがある。メッセージの送り主は、香港とは、茶餐廳とは全く縁のない、以前旅先のモンテネグロで出会ったウクライナ人の女性だった。どうやら私がInstagramに多数のミルクティーの写真をアップロードしているのを見て、黑白淡奶のあの牛のデザインを彼女も覚えていたらしい。

件のウクライナ人と出会った美しい小都市、モンテネグロ・コトル。

旅先に茶餐廳や香港に関連した飲食店があれば出来るだけ行くようにしている私でも、さすがにハンガリーは遠かった。行かなければという気持ちは心の中にずっとありながらも、コロナ禍だったり、未訪の国に行くことを優先したりでなかなか行く機会に恵まれなかったが、2024年の6月、仕事を辞めて東ヨーロッパを旅行していた際にようやくブダペストに辿りつけたのである。より正確に言えば、この店に行くために行程を調整してブダペストに寄るようにしたのだけれど。

夏のヨーロッパは最高すぎて、ドナウ川沿いを歩いているだけで幸せを感じられる。

ブダペストを訪れるのは二度目だった。前回は2009年の2月、大学を卒業する直前に二度目の海外旅行、初めての一人海外でヨーロッパを一か月周遊していた際に来て、くさり橋を渡ってブダの王宮を観光したり、HEVという郊外電車に乗って東欧みのある団地を鑑賞したり、日帰りでエステルゴムやスロバキアのブラチスラバまで行った記憶がある。トラムのチケットの買い方使い方で難儀して、罰金を払う羽目になった苦い思い出のある都市でもあった。

09年当時のデジカメで適当に撮っても、ドナウの真珠は美しかった

初ヨーロッパ、初一人海外でも、やることは郊外電車に乗って団地巡り

15年ぶりにやって来たハンガリー、ウクライナ人に教えてもらったAll Day Coffeeという名前の店は、ブダペストの目抜き通りにあった。香港なら九龍の彌敦道Nathan Roadか、灣仔から銅鑼灣にかけての軒尼詩道Hennesy Roadあたりだろうか。歩行者も車もバスもたくさん行き交う大通り沿い、ビルの入口にある小さなカフェが、目的の店だった。

そこら辺にあるカフェそのものなのに、港式奶茶があるという奇跡。


 室内にコーヒーメーカーと2、3席のカウンター席、店の外、テラス部分に折り畳み式のテーブルと椅子をいくつか並べて、全て合わせても10人座れるかどうか。All Day Coffeeはブダペストの街のあちこちにありそうな小さなカフェだったが、通り沿いに出しているブラックボードには「港式奶茶 Hong Kong Style Milk Tea」と書かれていて、この時点で香港を出発してから二週間近くが経ち奶茶の味が恋しくなっていた私の心はズッキューン!とやられてしまった。禁断症状でとにかく飲ませてくれ、早く飲ませてくれとばかりに・・・。

ブダペストはそれなりに華人がいるが、それでも街中で「港式奶茶」の文字が見れるとは!

以前の情報では、香港人のカップルが店を経営しているとのことだったが、私がその店を訪れた時にはまだ歩けるか歩けないかの小さな子供を連れた、中国人の女性が店を切り盛りしていた。早速ミルクティーを頼むと、黑白淡奶のカップに入ったミルクティーが出てくる。目の前にはハンガリーの、ブダペストの景色が広がっているのにもかかわらず、テーブルの上だけに目を向ければまるで茶餐廳だ。しかし奶茶の味は港式というには茶味が薄く、おいしくないわけではないけれど、「香濃」であるべき港式奶茶としては物足りないものであった。

ご覧よ黑白淡奶杯、ここは九龍でも港島でもなくブダペストだよ・・・


 海外で香港の奶茶の味をそのまま再現するのは、非常に難しいことだ。港式奶茶を飲み慣れている香港人だけがやって来るのであればいいが、よほど香港人がたくさん住んでいる場所でなければ、現地に住んでいる人を相手にしなければ商売にならない。必然的に奶茶の味は現地の味覚に合わせたものになっていくし、そもそも香港と完全に同じ味にするには材料が揃わなかったり、調達価格が高すぎたり、水の質の違いが茶味に影響することだってある。だから私は、海外で飲む港式奶茶の味を、香港と同じ基準で評価してはいけないと思っている。


 それにしても、港式奶茶としては少し違和感のある味だったので、私は店を営んでいる女性に詳しく話を聞いてみた。女性はとても感じの良い、親切な人で、聞けば移民を多数輩出している福建省福清の出身で、ハンガリーで十年以上生活しているという。

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彼女が言うには、以前このカフェを経営していた香港人のカップルがハンガリーを離れ英国に戻ったため私が店を引き継いだ、ミルクティーの作り方についても香港人から教えてもらったとのことだった。彼女の真摯な口ぶりに、私は味のことをとやかく言うのではなく、香港から遠く離れた地で港式奶茶を提供し続けていることそのものに感謝をしなければいけないな、と思った。

実はわずか2か月後、2024年8月に再訪している。桃切って出してくれたりして店主は本当にいい人でした。

 

 香港の味をそのまま再現してくれるのが最高ではあるけれど、食べ物や飲み物の味というのは、場所によって、時代によって変化していくものだ。茶餐廳で出されているメニューだって、本来の食べ物の味とは大きく異なっていることがよくあるではないか。ウクライナ人がボルシチだと思って香港の羅宋湯を頼んだら、きっと目を丸くすること間違いなしだよ、たぶん。

香港風ボルシチこと羅宋湯。ビーツのビの字もありませんが私は大好き。

ウクライナ人、日本人、香港人、福建人。モンテネグロ、ハンガリー、イギリス、そして香港。茶餐廳は、港式奶茶はもはや「洲際 intercontinental」なものなのかもしれない。
香港から8,500km、ブダペストの地で港式奶茶はどう変化して、どう生き残っていけるだろうか。そんなことを考えながら、またいつかハンガリーに行きたいと思っている。

三月の古洞 ー 古洞のこと、前編

サンガツ(Sangatsu)の”郊外で”という曲が似合うとつくづく思う村、古洞のことについて。

 

香港は新界、北區古洞。

開けた場所からは深圳の高層ビル群が見えるほど中港ボーダーに近いこの村は、高速道路が東西に横切り、トラックの往来が激しいながらもどこかのんびりとしていて、それでいて閉鎖的な感じがしない稀有な郊外の村だった。新界の村は部外者がやってくることに対して強い警戒感を持っていることがあるけれど(同じ姓の人々が暮らす単姓村や、客家村に多い印象)、古洞の場合はかつて市が立つほど賑わっていたこともあるからか、あるいは往来が多く、醤園(醤油などの工場)が多数あり通勤してくる人も多いからか、余所者が通りがかることに対する警戒感みたいなものが低く、ふらっと歩いて回るのが楽しいエリアだ。

奥には深圳の高層ビルが、そして手前では「北部都會區」の開発が進む。

悦和をはじめ、醬園が集積している(た)古洞。

平らで日光がよく入る土地は、醤油造りの好適地だったそう。

 

もともとは小さな村だったらしい古洞は、戦後に圍頭人や客家人、潮州人が集住し、青山公路沿いは大きく賑わったという。その繁栄も高速道路の建設に伴う開発で南北が分断され(みんな大好き福利冰室がある古洞街市購物中心は、この開発に伴う立ち退き移転先だったよう)、さらに上水石湖墟や粉嶺周辺のようにKCR/MTRが走っているわけではなく、ニュータウン化(やニュータウンの玄関口化)しなかったことから街市があるのに賑やかとは言い難い環境になってしまった。

街市から見た上水周辺。赤羽もびっくりの人の多さと、静かな古洞とのコントラスト。

若干似た雰囲気のエリアに屯門藍地があるけれど、同じ青山公路沿いながらあちらは輕鐵(新界西北、元朗・屯門エリアを走るMTR(旧KCR)運営のライトレール)があるからか、古洞ほどの田舎感はなく、より都市郊外然とした雰囲気になっているのに対して、やはり30分に一本の路線バスや、15分に一度来るかどうかのミニバスだけでは不便さは否めないのであろう。

村公所近く、士多や酒樓が並んでいた通りものんびり感が強い。

不便な場所だからこそ、独特の魅力が古洞には残っている。前述の古洞街市購物中心 Kwu Tung Market Shopping Centreは香港内の公設街市の中で唯一「街市購物中心」を名乗っていて、他の街市と作りが異なる部分があったり、周辺に高い建物が無いからか陽射しがあちこちから入り込んだりしている。賑やかな場所の代名詞たる「街市」ながらも、ここは時には静謐さを、時には涅槃のような美しさを感じさせる稀有な空間だ。

古洞街市購物中心。上水駅からKMBの76Kに乗れば10分ほどで行ける。

他の公設街市と全く違う、ゆるゆるでのんびりした空気が漂う。

晴れた日は上下階をつなぐ階段に光が差し込み、それはまるでダンスフロア。

街市内で飲茶ができる(點心を出す)店としては大埔墟街市熟食中心の林記が有名だけれども、古洞街市購物中心の得記茶樓もあなどれない。

詳しくは聞けていないが、ここも高速道路建設での立ち退き移転なのかもしれない。

點心はまあ、めちゃくちゃ美味しいわけではなく普通の味なのです。だが値段も安く、昼は昼でご飯ものも出てくるからか、古洞の村民ジジババや付近で働く人が束の間の賑わいを生み出している。

得記茶樓は自分で點心を見に行って選ぶスタイル。渋い點心が並ぶ。

建物の上階南側は大きな酒樓のようにずらっと丸テーブルと椅子が並んでいて、これは固定されたテーブルが多い他の熟食中心との違いでもある。外からの光、30分に一度やってくるバスの走行音、茶をしばく人々の昼過ぎまでの奇跡の賑わいと、美しくさびしい夕暮れの風。

この街市、果たして何匹いらっしゃるのだろうか。猫のメッカです。

南向き、高さのある大きな窓からは光がよく入り、時折り風がカーテンを揺らす。

 

1980年代に開発・立ち退きと移転の波を受けた古洞は、いま再び開発の大きな波に飲み込まれようとしている。

実はすでに、古洞の地下には落馬洲へと向かう東鐵線East Railが走っているのだけど、「北部都會區」計画の一環として住宅建設が進んでいる中で、来年には香港MTR100個目の駅となる古洞駅が出来てしまう。駅そのものが形になりつつある中で、今年の二月から三月にかけて青山公路より北にあるエリアの立ち退きが一気に、急速に進んでいる。

この下にはすでに電車が走っていて、そしてここは「駅前一等地」になる。

建設が進むMTR古洞駅。完成すれば、香港島まで40分ほどで行けるようになる。

 

平地で幹線道路が近く、日光を遮るものが少ないことから集積した醬園などの食品工場や、地域の人たちの福祉センター的な役割を持っていた小さな教会、半世紀の歴史があった村の幼稚園、閉業して久しい酒樓、町工場、そして士多(Store/食料品店)や小さな寮屋の数々。それによく使っていた公衆トイレや、「菜站」と呼ばれる農協のような、農産物の集積場に村公所も。

 

まだ営業していた頃の德利士多。猫がたくさんいる店でした。

ドキュメンタリーにも出てくる區さんの工場。窓からはよくオールディーズのロックが流れていた。

村が消えていく中で、古洞に「新市鎮」が完成しつつある。

おそらくあと数か月もすれば、古洞北の石仔嶺、塘角、東方といったエリアにあるこれらの建物や施設は、ほとんどが取り壊されて更地になってしまう。

古洞の「菜站」。昨年3月はここで"古洞最後の"観音誕のお祭りが行われていた。

たまたま好きな店が古洞に二軒もあるというだけで、私は古洞に家や職場があるわけでも、親類縁者がここに住んでいるわけでもない。それでも、この五年強、おそらく新界の中で一番通った土地である古洞が消えていくことにやるせなさを抱えずにはいれずにいて、ここ最近はほぼ毎週九龍から古洞まで足を運んでいる。

住民が立ち退いた後の家々は、あっという間に取り壊されていく。

まもなく最後の時を迎えるこの村を少しでも記録や記憶に残すべく、村民に携わるソーシャルワーカー(社工)や村の住民、フォトグラファーが頻繁に現地でのウォーキングツアーを開催したり、醬園の見学イベントなんかもあるけれど、それももしかしたら、この三月で終えることになるのかもしれない。

古洞のウォーキングツアー。政府による立ち退きは、必ずしも上手くいってはいない。

 

駅が出来る、開発が進む、村は消える。

時代の変化、香港や新界の変化の中で、さよなら、古洞。

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古洞のことについては、「茶粿 Cha Guo」というドキュメンタリーフィルム(キャセイパシフィック航空機内で見れます!)をご覧いただくのが一番雰囲気をつかめると思います。香港内ではたまに上映会もやっているので、機会があればぜひ。

 

とても良いドキュメンタリーです。30分くらいかつ英語字幕があるので観やすい。

「再見 後會有期」3月半ばで閉店し、立ち退いた德利士多の店頭にて。

 

さよなら、古洞(北)。



惜別、檀島咖啡餅店。

檀島が、灣仔の檀島咖啡餅店が閉業してしまった。

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灣仔・軒尼詩道。

MTRの駅からすぐ、バスが多数行き交う通り沿いにデカデカと輝く金文字で「檀島咖啡餅店」と書いてあるものだから、香港に住んでいる人なら大抵は知っている有名店だった檀島。リプトン推しがものすごい檀島。南国感はロゴ以外全然感じられないけれど、Honolulu Cafeというちょっと夢のある英語名だった檀島。

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率直に言って、檀島がとても良い店なのかと言われると口ごもる部分がある。

まず値段が高い。今でこその熱飲20ドル台は珍しくないけれど、檀島は2017年時点で既に熱飲21HKD、凍飲23HKDという強気価格。同じ時期の我らが金華冰廳は各々17HKD、19HKDだったので、2割くらい高かった。2026年時点ではさらに上がって熱飲23HKD、凍飲は25HKDで、円換算するとついに500円超えだよ・・・。

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サービスも別に良くはない。香港の標準的な接客態度と言われればそれまでだし、彼ら彼女らに何らかの悪意があるわけではなく、あくまで平常運転ではあるのが、それはまあつっけどんだし、笑顔は無いし、こちらからアクションを起こしていかないと待ちぼうけになるしといったところ。

そして店の外観はまだしも、内装は老舗にもかかわらず(今の灣仔店は90年代に移転開業したものらしく、そもそも歴史は長くないのだが)これといって趣があるものではなく、むしろセンスがだいぶ変だった。

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しかし檀島は1940年創業という香港茶餐廳屈指の歴史を持ち、茶餐廳としてはコーヒーが美味しく(看板だもの)、そして店名に「餅店」の名を含んでいるだけあって、とにかく西餅麵包(パン・ケーキ類)の品揃えが優れていた。何よりも、灣仔のランドマークとして、ただそこにあるだけでサマになっていたし、「とりあえず困ったら檀島に行けばいいか」という謎の安心感を提供していた。

 

今でこそ将軍澳に移転してしまったけれど、灣仔の駅を出て天橋(歩道橋)を渡ったところには入境事務處(イミグレーション/いわゆる移民局)があった。香港に来た人間は、ビザを申請し、受け取りに、そして香港IDを発行するためにと、(全てを人事総務や外部業者が行ってくれる立場でない限り)必ず、何度も入境事務大廈に行くことになる。そういう時に檀島は、時間調整や手続き前後の休憩にちょうどいい空間と食事を提供していたのだ。

私も忘れもしない2014年3月11日、初めてのワーキングビザを受け取りにひとり入境處に向かい、檀島でお茶してからビザをアクティベーションをしに深圳に向かったことがあり、ある種のランドマークたる檀島に対する思い入れというのはそれなりにあった。その後もビザ手続きの際は何度もお世話になったし、疫情下で「終日堂食禁止」という世紀の愚策(すぐ撤回されたが)が実施されたときには、檀島まで昼飯を買いにいったりもしていた。檀島は「なんとかなる場所」だったのだ。

 

惜しむらくは、そして自身の無見識を恥じるべきは、檀島の西餅麵包の豊富さについ最近まで気づけなかったことかもしれない。今となってはとても贅沢な話だけど、香港島内にまだ祥香や百好があり、昔ながらのエッグタルトやケーキ類に不自由していなかったからこそ檀島を気にしていなかったともいえる。

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しかし2026年、おそらく茶餐廳としてはここしか出していないであろう拿破崙餅(ナポレオンケーキ、香港式ミルフィーユとも)や、パンダンとバナナが二層になっている香蕉斑蘭巻蛋(Banana Pandan Roll)があり、そしてドーナツ然とした沙翁に、他の店では沙翁を名乗りがちな炸蛋球が併売されているのはもう檀島くらいしか残っていなかった。「自称192層」を誇る酥皮蛋撻(エッグタルト)でさえ、香港島の老舗茶餐廳で出すところがかなり限られてしまっていた。

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閉店が発表されてからの最後の半月ほど、何度も灣仔に通ってはこれらの"懐舊"な商品たちをコーヒーとともにいただき、砂漠化しつつある香港の茶餐廳事情を嘆いていたけれど、何もかもがもう、遅すぎたのだった。拿破崙餅、本当においしかったのに。

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あちこちのショッピングモールに向かえば、色とりどりのケーキやチョコやスイーツが並び、不毛だったコンビニでさえロールケーキやシュークリームが買える今の香港で、檀島や百好が出していたような古びた香港式のケーキ類というのは、もはや懐かしさ以外では勝負ができない状況だったのかもしれない。それでも、檀島の出していた、軒尼詩道に面して販売していた蛋撻(エッグタルト)、拿破崙餅、炸蛋球といった西餅麵包類は、香港が辿ってきた食文化、かつての栄華の味を知ることができた貴重なメニューだったと思う。

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檀島自体は将軍澳・坑口の支店が営業を続けるようだし、今や台湾(檀島香港餐廳として、穀物・鶏卵・食用油大手の大成集団が運営)やフィリピンに計10店舗以上の店舗網があるため、檀島そのものが消滅するわけではない。しかし、しかしだよ、灣仔の店舗が消えてしまった檀島は、もはや檀島とはいえない気がしませんか?

 

自家製のパンやケーキ類を出す茶餐廳は、香港ではもはや風前の灯火。この味を楽しめる時間は、もうあまり残されていないのかもしれない。

後悔することのないよう、皆様どうぞお早めに。

 

檀島咖啡餅店(灣仔)Honolulu Cafe

香港灣仔軒尼詩道176-178號地舖及閣樓

営業時間:2026年3月1日をもって営業終了(閉業)

アクセス:MTR灣仔駅A4出口からすぐ

二十歳の頃、無鉄砲と失敗の旅

今回、茶餐廳一切関係ない話でスミマセン。

ちょっと前にバンコクの空港から乗った白タクで一万円(といっても今や2,000バーツほどだが)をぼったくられて、タイ滞在を切り上げ急遽翌日に日本へ帰国した、という初ひとり海外旅行の方のtweetが話題になっていた。

Grab使えよ!とか、知らない土地に深夜着なら送迎頼めよ!とか様々なコメントが投げかけられていて、それはそれで大変ごもっともな内容ではあるのだけれど、よくよく見るとまだ二十歳になったばかりという青年に厳しい言葉ばかり畳み掛けまくるのはどうなのかな、と思うのと同時に、失敗だらけだった自らの二十歳の頃の記憶が蘇ってきた。まだ一歩も日本の外に足を踏み出したことはなかった、二十歳の頃のこと。

親の顔より見た空港駅の彼。バンコク着はARLが走っている時間にしましょう。

 

二十歳。

ちょっと前に四十歳になった今の私からすれば、二十歳なんて余りにも昔のこと、なんてことは全くなくて、本当についこの間、4,5年とは言わずともまだ10年くらい前のことのように思える。それでも(名ばかりの)大人であり中年である2026年の自分から見れば、二十歳当時なんて今以上に何にもわかっていなかったし、無鉄砲だし、失敗だらけだった。逆にいえば、二十歳なんて失敗したって当たり前の年齢なのだ。

 

片道25時間半かけて小笠原に行ったのも二十歳の時だった。

 

上京して二年目、大学二年生だった二十歳の私は、正直なところ大学に馴染めていなかった。

元々の怠惰な性格に加え、要領よく物事をこなす、今風にいえばシュッとしたタイプが多い同級生たちに気後れしていた部分もあるし、(さして熱を入れて受験勉強に取り組んでいなかったのだから当然ではあるが)小学生くらいの頃から漠然と行きたいと思っていた国立の大学に、前期後期とも盛大に落ちたのをまだ引きずっていたこともある。決して裕福な家ではないのに私立の大学に入れてもらった分、生活費をある程度自分でアルバイトして稼がなければいけなかったのも、プレッシャーになっていたのかもしれない。

 

当時住んでいたアパート。六畳、風呂はあるが冬寒いバランス釜、大学まで徒歩十分。築二十五年弱、家賃五万六千円。朝日が眩しい東向き。

 

ギリギリのところで留年を回避して二年生にはなったものの、朝起きられなかったり、大学まで徒歩10分のところに住んでいたにも関わらず通学路の大半を占める階段や坂道が億劫だったり、気のおけない友人を作れなかったりで、講義からどんどん足が遠のいてしまう。当時は今ほど出席が重視されてはいなかったけれど、やはり一度講義の内容についていけなくなると気後れして、履修講座からどんどん脱落していった。今にして思えばもっと周りの人に頼ったり、学事とかに相談すればよかったのだけど、それに気づけなかった二十歳の私はどんどん劣等感と焦燥感だけが増していき、この大学に入ったのは失敗だったのかな、とさえ思っていた。

 

住んでいたアパートと大学の間には、長い長い階段があった。

 

七月後半、本来であれば春学期の期末試験を受けなければならないのに、限界を感じていた私は高校生の頃から使っていた自転車で西へと走り出した。ママチャリで夏の国道一号線を進み、茅ケ崎を、小田原を経て気が付けば箱根湯本へ。

 

運動はからきしダメ、この世で一番嫌いな科目は体育というくらいスポーツに対して苦手意識がある自分だけど、自転車に乗るのは昔から好きだった。中学生の頃の担任が「大学生の時、京都まで自転車で行った」という話をずっと覚えていたし、高校一年生の時には水戸からずっと国道六号線を南下して、東京・府中の祖母の家まで往復したこともあった。運動神経はとてつもなく悪くても、持久力だけはそれなりにあったからか、一日中ママチャリを漕いで、知らない道、知っている町、見覚えがあるようでないロードサイドを走っていくのは、日常と非日常の隙間を進んでいくようで楽しかったのだ。

 

峠の麓、標高110mほどの箱根湯本についたのはもう日暮れ頃。着替えも何も持ってきていなかったので、その日は一度家に帰って、次の日に再び箱根湯本から峠越えに挑んだ。カッコよく「挑んだ」なんて書いてみたけれど、実際はギア無しのママチャリであの急勾配を登れるはずがなく、ほとんど歩いて、押して登る羽目になったのだけれど。

下界より少し涼しい箱根の山を越えていき、国道1号の最高地点を経て、芦の湖のほとり元箱根に辿り着くと7月下旬だというのに霧が出ていて肌寒い。コンビニでおでんを買って少し身体を温めてから、箱根峠に向かう。

 

国道1号線の最高地点にて。箱根峠(846m)より芦の湖手前の方が高いところにある。箱根の坂は本当にきつかった。

2005年当時は、7月末でも元箱根のコンビニでおでんを売っていたのだ。今にして思えばこんな真夏に!って感じだけど、この日は確かにおでんが欲しくなる気候だった。

日もとっぷりと暮れた19時少し前、標高846mの箱根峠を越えた。急な坂はほぼ押しながらだったとはいえ、ママチャリでここまで登ってこれた。以前走った水戸から東京への道のりはひたすら関東平野をゆくだけで、峠なんてものはなかったので、これが初めてのママチャリ峠越えだった。

この後、大学卒業までに北は札幌から西は山口まで同じママチャリで走ることになるのだが、ついぞこの高さの峠を越えることはなかった。

峠を越えると、途端に道が良くなり、そこから三島までは一気に、あっという間に降りていく。こんな道をママチャリで無鉄砲に爆走するのは良くないことだけど、天下の険たる箱根の山を自力で越えたことと、スリルありすぎる急坂の先の夜景にドーパミンがドバドバ出ていたのだろう、まるで一瞬のことのように一号線を走り抜けて、この日は沼津まで走ってから家に戻った。

次の日からは泊まりがけ用の荷物を持って、沼津から焼津に、焼津から大井川を渡り、愛知県に入って岡崎に、そして三重県に入って関(三重)、鈴鹿峠を越え滋賀県を経て京都、さらには大阪・泉佐野まで毎日100km前後を走っていき、中高の同級生が住んでいた和歌山を目指した。

途中、やはり中高の同級生が住んでいた京都の家に二泊させてもらい、昼間さんざん自転車で走ったのに夜の鴨川沿いを一緒に走って上賀茂神社を目指してみたり、今にして思えば本当にどこからあの体力が出てきたのかわからないこともたくさんあった。それが二十歳の無鉄砲さが成せることなのかもしれない。

越すも越されぬ大井川、蓬莱橋を渡る。近所に買い物へ行くかのような格好で東海道を走り抜けた。

道中では失敗をたくさん重ねた。

ちょうど安倍川の花火大会の日に当たった静岡では、暗く狭くアップダウンが激しい夜の大崩海岸をママチャリで走る羽目になり生きた心地がしなかったり、和歌山の友人の家まであと少しの泉佐野で駅前に駐輪したら、そこは駐輪禁止区域だったらしく翌日既にチャリが撤去されていた、なんてこともあった。

罰金を払ってその翌日に引き取りに行き、7月28日に自宅から走り始めて8日後、和歌山・岩出の友人宅に到着。当時住んでいた家はすぐ脇を東海道新幹線が走っていたのだけど、新横浜から新幹線に乗れば半日で着く距離を、足掛け9日かけてママチャリで走ったことになる。

安倍川花火大会の日に静岡市内を抜ける。この後、大崩海岸で肝を冷やすとも知らずに・・・

前の晩に停めた自転車が無くなっていたときは本当に焦った。ごめんなさい泉佐野市。

二十年後のいま振り返ってみても、全てを放り投げて自転車で旅に出るなんてかなりの大失敗だ。色々な人にお世話になったし、迷惑も心配もかけた。

けれど、結果的にこれが謎の自信というか、ただひたすら漕げば、前に進めば目的地にたどり着くという思考につながったのか、留年した後の二度目の二年生では必須語学週7コマ、うちドイツ語が週4という独文科のような地獄の日々を乗り越えて、そこからなんとか進級、卒業、就職まで進むことができた。

もしかしたらあの時、自転車で西に向かわなかった大学を退学していたかもしれず、結果的に人生のひとつのターニングポイントだったのだろう。

 

知立名物・藤田屋の大あんまきを初めて食べたのもこの時でした。

和歌山の友人宅には一年間自転車を置かせてもらい、そこからは長期休みになる度にこのギアもない、高校生の時にホームセンターで一万円で買ったママチャリを使って旅を続けた。

四国を一周したり、東京から太平洋側をひた走り札幌まで北上したり、最終的には卒業直前に山口・錦帯橋まで走ったあの頃、チャリに乗りながらよく奥田民生のイージュー☆ライダーを聴いていた。


僕らは自由を 僕らは青春を
気持ちのよい汗を けして枯れない涙を

眠らない体を すべて欲しがる欲望を
大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう

(奥田民生 "イージュー☆ライダー")

 

あの頃の自分は失敗ばかりしていて、無鉄砲で、それでもなんとか生きていて、結果としてよくわからない大人として過ごす今がある。大げさに言うのならば、きっとそういう事なんだろう。

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