十月四日、茶果嶺の榮華冰室が閉店する。
言うまでもなく政府による村の再開発と、それに伴う土地収容によって、1962年から続く奇跡のような店がその歴史に幕を下ろすことになる。

榮華冰室については既に色々な人が様々な媒体で書き記していて、最近は閉店前に一度でいいからと行かんとす人々の大行列がSNSを賑わせているけれど、それもあと2営業日。10月4日で、この素晴らしい、茶果嶺の、香港の歴史とともに歩んできた冰室が終わってしまう。

店主の”鏡叔”(歐陽偉鏡さん)のセレクトなのか、いつも懐かしの広東ポップが流れている店内、コンデンスミルクで食べる西多士、初代店主が旺角で買ってきたというハート型の意匠がかわいい中古の卡位…。この店についてはわたし如きでは到底書き尽くせないほどの魅力に溢れているけれど、これらが(そしてすぐ向かいの開記冰室が)全て過去のものになってしまうのは、とてもさびしい。

茶果嶺の村が、そして店が消えてしまう前にとばかりに足繁く榮華冰室に通う中で、去年の五月からずっと気になっていた鏡があった。
元々は教会だったという細長い榮華冰室の入って左手の壁にある鏡、そこには「砂羅越古晉 益新鏡莊 敬賀」という文字が刻まれている。鏡の右半分はいつのものだかわからない古いポスターで隠れているけれど、おそらく「榮華冰室 開幕誌慶」といった文字があり、この冰室の開店記念に贈呈されたものなのだと思われる。

「砂羅越 古晉」とは茶果嶺から2,400kmも離れたマレーシアはボルネオ島、サラワク州クチンのことだ。益新鏡莊について調べてみると、広東系華人が経営している現地の老舗の額縁店で、どうやら今でも現存しているらしい。そういえば、茶果嶺は長い歴史を持つ客家の村として名高いけれど、広州系の人も多いと聞いた。埋單の際に店主に出身を聞いてみると「廣州人だよ」と。そうか、親戚から贈られたものなのか。
それから一年強、榮華に行く度にこの鏡を見て、クチンに行かなければ、益新鏡莊に行かなければと常に思い続けていた。私は華人ではないし、華人研究者でもないけれど、マレーシアやベトナム、タイ、インドネシアで暮らす華人に対しては強い関心を抱いていたし、何よりサラワク州クチンというのは行くだけで美味しいものにありつける、食いしん坊バンザイタウンでもあるのだ。行かない手はない。(クチンやサラワクがどれだけ素晴らしいかは うっかりサラワクにご飯を食べに行った話 をご参照ください)
そうはいってもクチンは遠く、なかなか行く機会に恵まれないまま年を越し2026年となり、この六月。重い腰を上げ、私はようやく”砂羅越 古晉”ことサラワク州クチンを訪れた。

ちゃんと訪れるのは実に八年ぶりのクチン、空港から旧市街へ直行し、宿に荷物も置かないまま茶室でバターコーヒーを、そしてサラワクラクサをいただき、件の店を目指す。

Google mapにピンを立てていた益新鏡莊は、華人街”老巴剎 Old Bazaar”のエリアにあり、すぐに見つかった。しかし運悪く、ハリ・ガワイの連休の時期だったこともあり昼過ぎだというのに益新は閉まっている。

鍵が掛けられた門扉を前に、すわ結業か!?ここまで来たのに!?と一瞬焦ったものの、隣の店の人に聞いてみたところ「今日は休みなんじゃない?また明日来なさいよ。Whatsappある?念のため店の人の電話番号教えておくわね」と。よかった、益新鏡莊はまだ営業し続けていてくれているし、クチンの人は優しいし、サラワクってなんて素晴らしい場所なんだろう…!!
翌日。正午前に再び益新鏡莊に向かうと、相変わらず門扉は八割がた閉まっているけれど、ちょうど頼んだものを受け取りに来たと思しきお客さんがおり、少し隙間が開いている。これ幸いとばかりに店へと飛び込み、「香港から来た日本人です!この店について少しお話しを聞きたくて!」と無理を言い、訝しがる店主に時間をいただく。

益新鏡莊 Yeck Sung Frame Makersは、そして先代店主の歐陽偉才さんはクチンの中でも有名な店と人のようだった。残念ながら今年2月に96歳で亡くなられ、偉才さんにお目にかかることはできなかったのだけど、写真で拝見する御姿はどこか茶果嶺の榮華冰室で目にする鏡叔の面影を感じさせるものだった。

現店主、店としては三代目にあたるSteven氏(偉才さんの息子)も広東語(現地では”廣府話”)をお話しになるので、何故私が益新鏡莊に興味を持ったのかや、茶果嶺の榮華冰室のこと、再開発で店が消えていくことなどを私の下手くそな広東語で説明する。最初は戸惑っていたStevenさんからは、お父さんである偉才さんは広州からの移民一世だが、二世である自分はクチン生まれクチン育ちで広州や香港の親戚のことはもうよくわからないこと、今は鏡への文字入れはやっておらず、額縁専門であること、今年偉才さんが亡くなったことなどをひとつひとつ、丁寧に教えてもらった。

テーブルには父・偉才さんの写真や取材記事などがたくさん挟まれていて、「川沿いにある華人歴史博物館は行ったかい?あそこにもうちの父がいるよ」と話す口ぶりからも、広州から南洋クチンへ移り、老舗を築いた父を誇りに思っているのであろうことが強く感じられた。そして身勝手ながら去来するのは、偉才さんがご存命のうちにクチンに、益新鏡莊に来て話を聞くべきだったという思い…。

ひとしきりSteven氏にお話しを聞かせていただいた後、お礼を兼ねて額縁をひとつ購入させていただいた。サイズを伝えると機械を動かしはじめ、木材をカットし、フレームを作り上げていくその姿は、老舗の三代目そのものだった。

Steven氏からの話やテーブルに挟んであった記事、そしてネット上にあるクチンの老巴剎ストーリーを集めたウェブサイト掲載の内容などを総合すると歐陽偉才さんは1931年広州生まれ、戦後間もない頃、16歳にして広州から香港に移り、その後クチンにやってきて親戚がやっていた鏡屋で修行し、のちに店を買い取って益新鏡莊としたらしい。そこから90歳になるまで70年に亘って店を続けていたのだという。偉才さんご自身が香港でかつて暮らしていたのであれば、既にクチンに移り住んでから十数年が経っていたとしても、茶果嶺で冰室を開業した親戚に開店記念の鏡を贈るのは不思議ではない。榮華冰室の鏡は、広州、香港、クチンと広がっていった歐陽一族を繋ぐものでもあり、亡くなった歐陽偉才さんご自身の足取りを記憶するものでもあったのかもしれない。

後日、クチンから戻った私は榮華冰室に向かい、鏡叔に益新鏡莊へ行ったことを伝えた。普段は客として店主である鏡叔とはオーダーやお会計、挨拶程度の会話しかしないのだけど、益新鏡莊の話を持ち出すと鏡叔の顔がほころび「おおクチンまで行ったか!こんな小さな、狭い店を香港でやってる話もしたのか?恥ずかしいなあ」と謙遜を交えて笑いながらお話しをされていた。鏡叔の笑顔を見るにつけ、物好きな私の自己満足ではあるけれど、クチンに、益新鏡莊に行ってよかったとつくづく思わされた。

広州を出発点に、片や香港九龍・茶果嶺に、片やマレーシアはサラワク州クチンに移っていった歐陽さん一族の歴史、そして益新鏡莊と榮華冰室という二つの老舗の歴史を、今も物言わず語り続ける鏡。それは交通・通信が発達した今よりも、ある意味ではずっと香港と東南アジア、そして華人の出発点であった広州や潮州、福建とが繋がっていた時代の記憶であり、証拠なのであろう。

伝え聞いた話では、榮華冰室の古い卡位(ボックス席)などは閉店後、博物館に収蔵されるようである。果たしてこの鏡は、どうなってしまうのだろうか。早ければ一ヶ月も経たずにやってくるのであろう取り壊しの日までに、華人一族の歴史、店の歴史を繋いできたこの鏡がどこかよい所で保管されることを、私は願って已まない。

さよなら茶果嶺、そしてありがとう榮華冰室。














































































